【店舗銀行】について 詳しくは こちら
「自分なら、こんなお店を…」と、
言いかけたところで、ジンフィズが運ばれてきた。
暖房の風に吹かれた、グラスの氷がカランと音を立てる。
レモンの香りが、日頃の銀行業務の疲れを癒してくれる。
僕が入社した当初、たまたま同僚と入った、このバー【JM】。
月に2度3度と通い、15年たった今では常連になってしまっていた。
しまっていたというのは、バーに失礼だけど、別に色気のある店じゃないし、
マスターはいい人だけど、ちょっと太りすぎていて、
バーカウンターに腹がこすれて、歩くたびに、グラスがちんちんと鳴った。
僕は勤めていた銀行で、札幌支店長・補佐になっていた。
はたから見れば順風満帆、
だけど、どこか空虚なチクっとした痛みがある。
そんな痛みのせいか、お酒がまわってくると、
ススキノにある、居酒屋や料理店の不満を口にしてしまう。
悪口ほど、酒のつまみになるものはない。
それは半分、嫉妬だってことは、分かってる。
「角のイタリアンさ、味は悪くないんだけど、
オリーブがよくないね、何か缶詰の匂いがしてさ…
それに、メニューは多けりゃいいってもんじゃないし」
他の常連が、おいしいと、すすめてくれる店に、
ついつい、ケチをつけたくなる。
まぁまぁ、と諭してくれるのは、いつもマスター。
「飯は何でもうまいですよ」確かに、マスターにとってはそうだろうが。
そんなやりとりを常連としていると、必ず決まって。
「だったら自分の店をやってみろよ」
何度その言葉を聞いたろう…
「じゃあ自分の店をやったら?」
「そこまで言うんだから、白井さんがやれば…」
「やーれ!やーれ!やーれ!」
いつも黙ってしまう僕。
下手に15年も銀行マンをやっていたわけではない。
開店資金にどれだけのお金がかかるのか、
銀行は担保がないまま、飲食店に簡単に融資したりしない。
何人もそういう苦しむ経営者を見てきたし、
開店したとて、資金繰りで夜もロクに眠れず、
目のしたにクマをつくっている人々を見てきた。
今夜もお酒がすすむ。
店内に流れているのは、レイラ・ハサウェイの
‘When your life was low’
和訳すると『人生の最低のとき』
笑えないBGMも愉快に聞こえ、僕のまぶたが重くなった。
今夜のジンフィズは少々濃いようだ。
・
ウトウトしながら、もうどれくらいたったろう、
追い出されていないので、まだ閉店ではないのか。
カランと扉があく。
店内は思いのほか客でにぎわい、たまたまあいていた僕の横に座った。
「ジンフィズを」
思わず顔をあげると、オレンジ色のマフラーが目に入る。
あ、えっと、言葉が出てこないけど、胸がずんと高鳴った。
セミロングの髪を雪の結晶を模したバレッタで束ねている。
まだ幼さの残る大きな瞳。表情は変わらないが僕には微笑んでいるように見えた。
「お隣いいですか?」
「あ、いえ、はい、もちろん、あ、すみません」
美人が横に座り、それを気取られないようにしたつもりだが、だめだ。
すみません、なんて謝っちゃってるし。
「就活どう?」ジンフィズを出しながら、マスターが聞く。
「どうって、おとといきたとこですよ。変わりなく、はい」
常連なのだろうか…僕は会ったことがない。
と、彼女は手袋と一緒に、カウンターになにげなくパンフレットを置いた。
【ジョイフル酒肴小路 入…】と書かれている。
手袋で、「入」までしか見えない。
入居?ではないな?入社だろう。
彼女は、一体どんな会社を受けているのだろう。
僕がアドバイス出来ることがあるだろうか、いや話しかけるなんて、
下心まるだしだしな。
ふいに、彼女が手袋を就活用に買ったであろう黒い簡素なカバンにしまった。
ファーがあしらわれた手触りのよさそうな手袋とはいささか不釣り合いだ。
「マスター、わたし、やっぱり自分の飲食店を持ちたいなと思って」
あ、と口に出してしまっていた僕。
彼女はこちらをむく。
「あ、いえ…すみません」と僕。
僕も、飲食店やりたいなと思ったことがあるんですよ、などと話しかけたら
気味悪がられるに決まっている。表情を隠すようにグラスに口をつけた。
カウンターのパンフレットには【ジョイフル酒肴小路 入店】
と、書かれている。フランチャイズか何かの案内だろうか。
「このひともね、自分の飲食店を持ちたいっていつも言ってるんだよ」
ジンフィズを吹き出しそうになる。
おい、マスター。どんな紹介の仕方だ。夢に敗れ、臆病者です、と言いたのか。
「いえ、ただの銀行マンですよ」
思考をフル回転させ、とっさにフォローしたがどうだろう。
だけど、恥ずかしさとは裏腹に言葉が口から滑り出る。
「なに?自分の店を持ちたいの?僕が見てあげるよ」
何を偉そうに。
「ありがとうございます!わたし、ちょっといまいち分からなくて…」
「いいよいいよ」
何がいいのか、分からないが、
今宵は彼女の恋愛対象でなく、うらぶれた親父。
彼女の目にはそう映ることを覚悟して、パンフレットを手にとった。
【資金・経験が無くても飲食店経営は出来る】
そんな文言が目に入った、少し怪しい売り文句。
【店舗銀行システムで独立するという選択】
店舗銀行システム?あまり聞き馴染みのない言葉だ。
中をひらくと、ジャスマックの文字。
パンフレットには…
新装店舗でオープンできる、とのこと。
「あの…これ悪いんだけど、ちょっと怪しいかも」
「えっ?」
「新装店舗でオープン出来るなんて、あんまり聞いたことないし、
出来たとしても、結構なリスクを背負うんじゃないかな?」
「そうですか…やっぱり自分の店持つなんて、夢なんですかね」
そういうと、彼女は口を少し突き出した。
イジける寂しい姿。可憐な彼女の姿に自分を重ねるのは、
いささか失礼な気もするが、それはいつも愚痴ばかり言っている、
僕のように見えた。
「他には、何か資料はないの?」
僕は、少しでも説明出来るかたちで、どういうリスクがあるのか、
伝えてあげたかった、それでもやるなら彼女の人生だ。
これとか、と彼女が取りだしたのは、
【小さない飲食店の成功条件 「店舗力」と「人間資本」】
と、少々お堅いように見える冊子だ。
開くと、まず企業理念が目に入る。
『小さな飲食店の開業チャンスを、資本がなくてもやる気のある多くの経営者に、提供し続けてまいりました』
目を移すと、40年以上実績、と書かれている。
そこには、小さな飲食店が生き残る経営戦略が書かれていた。
・小規模一位主義
・大きなライバルを相手にせず、得意なことに集中してそのエリアで一番になればいい。
まぁ、たしかにな、思わず口にしていた。
え?と、彼女。
僕は、ここに書かれていることに、いちおう賛同する。
特定の料理にしぼり、経営者が1人で、切り盛り
すれば人件費がかさむこともないし、
行き届いた経営が出来る、非常にシンプルな経営だ。
でも、知りたいのはそこじゃない。
店舗銀行ってなんだ?
お、ここだ。
【店舗の斡旋をするのが『店舗銀行』】
「なるほど、銀行はお金をかす、そのように店舗を斡旋するというわけか」
「さっきから独り言すごいですよ」
と彼女。
「あ、すみません」
次の一文にも目を引かれた。
【繁華街好立地に店舗づくりのプロが作った、収益力のある店で開業出来る。
なので、店づくりは店舗銀行が行っているから店舗をつくる資金は必要ない】
僕が見入っているのを、
彼女の、おかわりの注文で、引き戻された。
「ちょっと分かったよ、内装が整ったテナントで
開業が出来るってみたいだ」
「で、そのリスクってのはどうなんですか?」
そう肝心なのはリスクだ。
フランチャイズでも、開業に多くのお金が、かかるものがある。
【FCのフランチャイジーが背負う設備リスクからも、完全に免れている。
たとえ失敗したとしても借金を残さず、人生の再挑戦で成功を目指すことを可能になる】
「シンプルに言えば家賃を払うってことだよな。
失敗のことまで書いてるなんて、言いすぎだね、ちょっと」
「なんか、担当の方が言っていたのは、
短期期間で失敗すると、ジャスマックが損しちゃうんだって笑
初期投資のリスクをとってるから」
彼女はそういうと…
「白井さんもお店やりたいんですよね?
イタリアン、わたし食べてみたいな」
今まで何度言われてきたであろう、セリフなのに、
鶴の一声のように、僕のこころに染み入った。
「もしも、開業出来たら食べにきてくれる?」
「もちろん、なんなら手伝いますよ」
えっ…この冊子には、家族単位でするのも、むいていると書いてあった。
彼女と一緒に飲食店を始めたら、彼女が奥さんなら、どんな素敵だろう。
もしかしたらこの店舗銀行のシステムなら、僕は開業できるかもしれない。
よし!僕は飲食店をはじめ…
・
「白井さん、白井さん」
と、見慣れたマスターの腹が目に入る。
「すみませんが閉店です」
「あ、はい…あの…隣に座っていた女性は?」
目をこすりながらたずねる。
「ん?さっきから一人ですよ」
そうか、出来過ぎていると思った。なにもかも。
僕は氷がとけて薄くなったジンフィズを飲み干し、カウンターの上にグラスを置いた。
目に入ったのは
【ジョイフル酒肴小路 入店】のパンフレット
なんだ?これは夢で見たパンフレット。
店内のスピーカーから流れるレイラ・ハサウェイが
‘The world will change again.’「もう一度世界をかえよう」と唄っていた。
【店舗銀行】について 詳しくは こちら