‐株式会社ジャスマック代表取締役会長:葛和満博 ‐
1931(昭和6)年12月1日生まれ-
早稲田大学在学中に貿易会社を興す。
店舗銀行システムを創設し、飲食店向け内装設備付きリース店舗を展開。
株式会社 ジャスマック 代表取締役会長(創業者)
1957年にアモン商事株式会社を設立し飲食業の経営に携わる。
1961年店舗銀行システムを創設。
1970年には株式会社飲食界情報管理センターを設立し、「店舗銀行システム」による管理業務を始める。
1980年、株式会社ジャスマックに社名変更し、現在全国に商業店舗ビル及びホテル・レストラン等の商業施設を経営する一方、
飲食・ホテル業のような人間主役型サービス産業に的を絞った、「店舗銀行システム」によるユニークな資産運用管理会社に注目が集まる。
全国の社有商業ビルで、飲食店向け内装設備付きリース店舗を展開。
以来半世紀にわたり、所有と経営の分離の普及につとめている。
開発した主な商業施設として、「札幌ジャスマックプラザ」「ノアの方舟」「小樽ホテル」「ホテル・イル・パラッツォ」「門司港ホテル」「大坂WTCコスモホール」等、国内外の著名建築家やインテリアデザイナーを起用した、ユニークな商業施設の開発、運営で話題を集める。
著書に『飲食業の革命方式』(KKベストセラーズ)、『飲食業のオーナーになって儲ける法』『商業ビル経営の実際』(日本実業出版社)、『不動産事業化戦略の実際』(ダイヤモンド社)、『新業態ホテル開発運営マニュアル』(ビジネス社)『石橋をたたいて渡る資産運用法』(総合法令出版)等がある。
【店舗銀行】について 詳しくは こちら
‐ 55年前に志した「飲食の道」 ‐
私は大学入学とともに上京し、すぐに、学生ながら得意の英語を生かした貿易業で起業し、また不動産の仲介業も行った。
やがて、それまでの蓄えを元手に、30歳(55年前)のときに飲食店を持った。この時、いろいろと考えた末に飲食業を選んだ。
「飲食」を志した4つの理由を述べたい。
第一に、とにかく収入の安定した仕事がしたかったことだ。
飲食店なら、毎日の収入がすべて現金で入ってくる。
それまで経験した貿易や不動産の仲介などのブローカービジネスでは成功報酬しか期待できず、収入が不安定だ。それに比べれば、飲食店ははるかに堅実な仕事ではないか。そう考えたのである。
実際に飲食店を始めて、改めて私は日銭商売の強さを、つくづくと感じることになる。
第二は、自分の城をかまえて商売をしたかったことだ。
飲食店の店舗は、経営者の城である。
しかも店舗はそれ自体、財産としての価値があった。
つまり、保証金を払ってビルオーナーから借りたスペースであっても、内装設備に投資すれば、店舗の造作権は家主の同意が得られれば売買もできる立派な資産なのである。
しかも一度開業すると、繁盛している限り、店舗は常に現金収入を生み続けてくれるのである。第三は、いまでこそ大企業も飲食事業に入ってくるようになったが、当時は飲食業に大企業が参入してくることなど、考えられない時代だったことだ。
大企業と戦う必要がないということが魅力だった。
貿易業をやっていた時代に、零細企業が大企業に立ち向かうことのむずかしさを、私は身にしみて知らされていた。儲かると見た分野で先に事業を始めても、大企業が本格的に進出すれば、零細企業などはたちまち蹴散らされてしまう。
しかし、飲食業を不確実な商売として、一段下に見る風潮や、製造業中心でサービス業を軽視する大企業の体質からいって、飲食店は大企業が当面は進出する業界ではないだろうと見たのである。第四に、これからは飲食業が儲かる時代になるという、経営者としての直観であった。
当時は、高度成長期の真っただ中である。のちに首相となった福田赳夫氏が「昭和元禄」と呼んだ、ぜいたく志向時代が始まろうとしていた。ただ飲食するだけではなく、高級感のある飲食店への需要があるはずだと考えたのだ。以上のような理由を背景に、飲食店への転身を決意した私は、それまでの努力で得た収益をもとでに、次々と飲食店をオープンして行った。
バー、スナック、喫茶店、大衆割烹、レストランなど、業種はさまざまだった。特にどのような店をやりたいというのではなく、手に入った店舗の立地に応じて業態を決め、次々と開店した。
‐ チェーン展開の難しさ ‐
私の狙いは当たった。
飲食店は確かに面白いように儲かった。高度成長期を迎えた日本では、企業の業績が上がり、人々の所得が増えていった。
お客はどんどんお金を落としてくれたのである。
現金商売の強みである。
店の運営は店長に任せきりだったが、それぞれの店舗は、いずれもお金を生むキャッシュマシンのようなもので、毎晩、少なくない日銭が入ってきた。若かった私は、友人を引き連れて飲み屋を渡り歩き、どんちゃん騒ぎをするなどということもあった。――――― しかし………難しい問題が続出……… ―――――
バカ騒ぎのできる時代は、そう長くは続かなかった。
競合店の出現、人件費の高騰、人事管理のむずかしさなど、各店舗とも問題が続出し始めるようになったのだ。
黙っていても、飲食店が儲かる時代は終わり、私が経営する各店舗とも経営の立て直しが迫られるようになった。
いざ、経営改善に真剣に取り組んでみると、問題は山積していた。まず何よりも、大事な現金管理がなおざりだった。
飲食店では日々の売り上げが現金で入る。それと同時に材料の仕入れ、アルバイトの人件費など日々の出費もある。
この差額が利益となるのだが、肝心の現金の勘定がなかなかうまく合わない。私が放任経営をしている間に、従業員が悪戯心(いたずらごころ)を起こしていたケースもあるかもしれない。
経営の正常化のためには、経営者が現金の出入りに鋭く目を配るのは当然なのだが、従業員の受け止め方は微妙である。
私自身もやりきれない思いをしたが、身に覚えのない従業員は私以上に嫌な思いをしたはずである。
ここにも、私が見過ごしてきた現金商売のむずかしさがあった。次にたいへんだったのは、人事管理である。
飲食店では有能な人間ほど独立心が旺盛だ。一刻も早く一国一城の主になりたいという気持ちを抱いている。
私の店で飲食店のノウハウを会得すると、スポンサーを見つけ、おまけに顧客まで引き連れて、次々と独立していくのだ。
また、独立とまで行かなくとも、待遇が少しでもいい店が見つかると、すぐに辞めてしまう従業員も、少なからず、いたものだ。
要するに、飲食店では従業員の定着率が極めて低いのである。
ある店舗の店長が突然辞めたのに、その替わりの務まる従業員がなかなか見つからず、開店しさえすれば儲かるはずの店を、みすみす何日間か閉めざるを得なかったこともある。経営に真剣に取り組めば取り組むほど、私は忙しくなった。
夕方から深夜にかけて、各店舗を回って売上げを回収したり、翌日の打ち合わせをしたりする。酒屋や食品店を相手に、仕入れや決済の交渉をする。
こうした日常業務の間に、辞めたいという従業員を引き留めたり、新しい従業員の面接をしたりという毎日だ。
危ういところで経営危機から脱し、再び何とか日銭が入るようになったのだが、その代わり、今度は、体がいくつあっても足りないほどになった。
いくら儲かっても、これでは体が持たない。何とかしなければと、私は真剣に考えるようになった。
‐ 現状を踏まえ、「店舗銀行」を発想 ‐
飲食店は計数だという事実、お客様は店主とコミュニケーションすることを望んでいるという事実(つまり、飲食店は店主が自ら経営する生業店が理想)。この二つの事実を結びつけて、私はある考えに至った。
だれが経営者であろうと、一所懸命に努力しさえすれば経営が安定し、店から上がる利益はあまり変わらないのではないか。
ならば、私は一定の配当だけを受け取って、店長を経営者にしてしまったほうがよいのではないか。
こうすれば、お客様と経営者は親しくなれる。同時に私の身体も楽になるし、やる気のある店長は資金がなくても独立することができる。
私も、店長も、お客も、みんなが満足できるのではないか。要するに、各店舗の所有(資本)と運営(経営)を分離し、私がオーナーになり、店長たちを経営者にしようと考えたのである。
そんなことを考えていたある日、繁盛していたある店で突然、店長がやめてしまった。私は急いで次の店長を任命して店の経営に当たらせなければならなかった。
突然の店長の交代が店の営業にどう影響するか、たいへん危惧したのであるが、店は以前と変わりなく繁盛を続けた。
店舗自体に儲かる条件が備わっていれば、店長が変わっても店の経営はうまく行くのである。
儲かる店づくりに専念しようという私の決断を、このアクシデントは後押ししてくれたのである。「生業店の強み」がフルに生かされる
私は各店の店長と「経営委託契約(当時は店長契約)」を結ぶ形で、店の従業員や店長を次々に独立経営者に切り替えていった。
一定の金額を委託料として私に払えば、後の売上げはすべてその人たちの儲けになるのだ。新システムの効果は劇的だった。
経営者の私から見れば、まったく物足りない働きぶりだった従業員たちが、そのとたん、全力を挙げて働き始めたのである。
業績を上げようと上げまいと、給料には変わりがなかったそれまでとは違い、実績が直ちに収入につながるのであるから当然といえば当然である。
給料をもらっている人間は、これくらいが給料分だと思う程度にしか働かない。しかし、売上げの上昇が、直接、自分の利益に返ってくることが分かれば、モチベーションは一気に上がるものだ。
しかも働いているのは、いまや自分の店なのである。お金だけの問題だけでなく、やりがいがまったく違う。常連客も増える。
‐ 現状を踏まえ、「店舗銀行」を発想 ‐
当時の私は40代の初めである。
仕事が大好きで、生まれついての事業家肌の私が、そのまま隠居のような人生を送ることなど、耐えられるわけがない。
そして私が思い至ったのは、それまでに実践したことを、そのまま新しい事業として展開することだった。
つまり、儲かる店舗をつくるということ。店舗は広ければいいというものではない。業態にもよるが、飲食店だと10坪から15坪で十分ということもある。この広さだと経営者ともう1人、2人いれば運営でき、経営効率を高めることができる。
小規模な生業店であれば、家賃、人件費はもちろんのこと、光熱費などの経費も抑えることが可能になる。メニューを絞ることで、食材費を抑えることもできる。すなわち、損益分岐点が低いのだ。
私は、立地、業態、規模、内装など飲食店の儲かる店づくりの条件に従って、店という「舞台」を造ることに専念し、店舗から一定の配当を受け取って経営を任せればよいではないか。店は「舞台」、経営者は「役者」、店舗銀行は「演出家」
経営者として多店舗をつくり上げる中で、私は店舗づくりにさんざん苦労した。「こうすれば儲かるだろう」と思ってつくった店が、開店してみれば赤字の垂れ流しだったことも、もちろんある。立地、業態、規模、内装選択などの間違いを繰り返した。
私は、店の運営よりも、店づくりが好きな人間だった。
飲食店のサービス面に気を取られることなく、努力を店づくりに集中させた。すると、店づくりに失敗したと気づいたら躊躇せず処分したり、さんざん苦労して得たノウハウがしだいに活きるようになってきた。
‐ さいごに ‐
現在、店舗銀行システムは自社所有の商業ビルで展開する機会が多い。3,000店舗はゆうに店づくりを行ってきた。
ノウハウとは、「過去にどれだけ多くの失敗をしたか」であると私は思っている。単なる理論ではなく、飲食店の店づくりについて、私は多額の授業料を支払って、ノウハウを積み重ねてきた。
そうしたノウハウのおかげで、私がつくった店舗はどれも経営が順調にいき、家賃が遅れたり未払いになったりすることもほとんどなかった。店は「舞台」であり、経営者は「役者」である。舞台を背景にして、主役であるお客様が引き立つように、役者は絶妙の演技を見せる。それによってお客様に支持され、人気を得る。
もし、店の経営が不振というならば、舞台をその役者が生かし切れていないのであり、力量に問題があると考えられる。
だから、すべてのリスクマネジメントに責任を持つ私が、ちょうど演出家のような立場に立ち、有能な役者(経営者)に交代させることで、不振店は確実に繁盛店に生まれ変わる。辞める経営者にしても、より適性のある職業に就くために、早い転身が得なのだ。店舗銀行システムでは、その際、借りている店舗を返すだけでよいのである。
アパートなどの入居者と違い、飲食店の場合、家賃も払えない経営者が営業権を主張して居座るなどということは、めったに起きない。
家賃さえ払えないということは、つまり店の経営が赤字だということである。赤字の店にしがみついていても、さらに赤字が増えるだけだ。
借金を背負うようなことにならないうちに見切りをつけたほうが、経営者にとっても得策なのである。