『飲食店開業』のチャンスをもっと身近に。
“やる気”があれば開業できる社会に。
少資本でお店を始めることができれば、借り入れた毎月の大きな元利返済の負担もない。
だから、飲食店経営を続けられない事情があれば、“やめられる”。
そんな“店舗銀行システム”の創始者『葛和満博』(現:取締役会長 86歳)にシステムが誕生したいきさつを聞きました。
早大商学部の学生だった1950年、私は学資かせぎの必要から、知り合った外国人と組んでささやかな貿易業をはじめた。
当時は現在と違って、大手商社も敗戦の痛手から立ち直れず、小規模ながらも商売の余地は十分にあった。
主としてニュージーランド、オーストラリア向けに双眼鏡や釣り道具などの雑貨を輸出していたのだが、幸いにもこれが大変当たった。
学生企業の走りのようなビジネスで私はかなりの利益をあげることができた。
しかし、世の中も落ち着き、大手の商社が力をつけてくるや、私は早々に小さな貿易業に見切りをつけた。
そしてインターナショナルハウスビュローという社名で外人専門の不動産仲介業をはじめた。
貿易業に携わっていて在留外国人の住宅ニーズが多いことを知ったのが、その動機であった。
この不動産ビジネスも大いに当たったのだが、やがて、業績を拡大するためには、営業マンを増やし、車両を買い足し、営業所を増設し、より多額の広告費を要するなど、限りない拡大均衡を必要とするこの仕事に疑問を持っようになり、事業転換を図ることにした。
これまでの貿易業と不動産仲介業で儲けた資金を投じ、バー、スナック、クラブ、小料理 店、割亭、喫茶店、レストラン等の飲食店を次々に手に入れ、飲食事業に乗り出したのである。
当時、飲食事業は一般に水商売といわれ、不確かな商売の代表に思われていたが、そこにこれからの新しいビジネスチャンスを強く感じていた。
「人のいく裏に道あり花の山」 飲食業をそのように捉え、このビジネスに取り組んだのだが、花の山、どころか宝の山、を見つけだした。
高度成長時代という時の運にも恵まれ、どの店も大繁盛したからであった。
もちろん、良いことばかりではなく、苦い経験や失敗もたくさんあった。
同じ飲食業とはいえ、業態のことなる多店舗の経営はたいへん煩雑だった。
管理をするにも、すべての店に目がゆきとどかない。
金銭上のトラブルもたびたび起こる。目にあまる“ずさん”な店長も少なくなかった。
また、一般に飲食店の従業員は少し仕事がわかるようになると、より良い条件を求めて転職や独立していく人が多いことなどにも閉口した。
加えて、材料費や人件費が上がり続けることも悩みのタネであった。
お客の中には、単に飲み食いが日的というだけでなく、店主の私に会いたくてわざわざ訪れる人も多い。
ところが、私は複数の店の経営管理の仕事に追われ、体がいくつあっても足りない忙しさだった。
当然、そういうお客との人間関係も疎遠になる。
そうした反省もあった。私は、旧態依然とした直営方式による多店舗展開の限界をつくづく感じたものである。
ところが、商売が儲かる一方、そのような苦い体験や反省を重ねる中で、ある時、ふと 一つの発想が天啓のごとくひらめいた。
それは、『人間を核心にすえた商売』こそが飲食業の原点であるという考えであった。
そのことに気づいた私は、さっそく、それぞれの店の“店長”を“経営者”に切り替えた。
私自身は各店舗を保有するオーナーとなり、一定の家賃と利益配当を義務付ける以外はすべて経営者の利益としてよいシステムとした。
いわば店の経営を全面的にまかせる店舗委託経営方式をあみだしたのである。
その結果は上々だった。
店長経営者たちは、がぜん働きだし、今まで以上に利益を生むようになった。
雇い人ではなく、実質上の経営者となったことにより、店を繁盛させようという意欲と情熱がパワーアップした。
直営の時は、あれほど人材に恵まれず、苦労していたのがウソのように、まわりの人材が有能な経営者に育ちはじめたのである。
こうして、のちの「店舗銀行システム」の原点となる発想を得たのである。
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